ワックス要りませんって言えん
自分はNOと言える側の人間だと思って生きてきた。
街頭で配られているティッシュとかチラシを躱せるし、あんまり要らないサービスをなんとなく契約してしまったこともないし。でも今日、久しぶりに美容院へ行って髪を洗われている最中に気が付いたんですよ。
俺、ワックスいりませんって言えたこと、ないなって。
美容室の仕上げで「ワックスどうします?」って聞かれた時、特にこの後予定もないのについ「あ、お願いします」って言っちゃう。なんでって、多分美容室の会話って脳死してしまうトラップだらけだからじゃないでしょうか。
「かゆいところないですか~」「あ、大丈夫です~」
「タオル苦しくないですか~」「平気です~」
基本肯定するしかない問答が溢れすぎ。かゆいとこありますかって言われてあー後頭部の右下のこの辺りが~って返す人、いなくない?マッサージ屋に来てるんじゃないんだぞ。他にも「いたくないですか」とか「あつくないですか」とか、こっちの主観に委ねた質問をいくつもしてくる。多少痛くても熱くてもよっぽどじゃない限り「大丈夫です」って答えるしかないじゃん。
よし。今日は、ワックスいらないですって言おう。
顔に被せられた紙みたいなやつを睨みながら、密かにそう決意した。言うぞ。俺はNOって言える、流されない人間になるんだ。見とけよ。俺の決意などつゆ知らず「じゃあ乾かしましょうね~」と言ったお兄さんに連れられて着席し、ドライヤーの風を受けながらその質問を今か今かと待ち受ける。
ドライヤーの風が止み、「今日はどんな感じにするの?」という質問に「うーん……なんかそれっぽく……」とかわけのわからん返しをしながら見た鏡。
そこには、俺の背後に立つお兄さんが手をぬちゃぬちゃさせている光景が写り込んでいた。
あ~。終わった。
負けたんだ、俺。
聞かれなかった。毎回お願いしますって言うから省かれちゃったのかな。にょーんと無慈悲に髪の毛を立てられながら悔しさを噛み締める。このワックス、セット力抜群なのか風呂で洗っても洗っても取れないんだよ。「こんな感じですけどどうですかー?」と鏡を見せられて、よくないですって言ってやろうかと悩んでいや潔くないなと諦めた。
「ありがとうございましたー」
外、あっつ。なんなん。行き場のない怒りを抱えてバス停に着く。くそが。でもバスはすぐに来た。なおのこと怒りのやり場がない。あ~、完敗だなぁといっそすがすがしくなる。
帰ったらカルピス飲もう。